豊臣の時代が長く続かなかった一番の理由は血族の地盤が臆弱だった事だと思います。
秀吉は正室の寧々の他に側室が確認できるだけで16人いました。男色も武士の嗜みと言われてる時代でしたが、性の対象は女性だけでした。
わしゃ~女にしか興味ないでのぉ。
しかもかなりの好色家で、かつての君主織田信長が寧々を気遣い慰めの手紙を書くほど(; ・`д・´)
おい禿ネズミ、寧々という良き妻が居ながら好き勝手やってるそうじゃないか!あんな良い女お前なんかには勿体無い位だというのに!マジ反省しろ!
※悩める寧々に宛てた信長からの心温まる手紙には天下布武の判まで押してありますΣ(・ω・ノ)ノ!
そんな女性が大好きな秀吉なんですが、いくら色んな女性と関係を持っても、誰一人秀吉の子を身ごもる者は居ませんでした。
側室の中には出産経験の有る女性、そして秀吉の側室から他の武将の側室になった瞬間懐妊した女性も居る事から、秀吉はおそらく男性不妊症だった事が考えられています。
実子は諦めて、甥の豊臣秀次を後継者にと考え始めた秀吉51歳の時でした。
秀吉は51歳にして30も年の離れた茶々に人生最大級の恋をします。
わしの姪っ子じゃね~かよ!
するとどうでしょう?今までず~~~~っと出来なかった子供がすぐに出来たのです(゚д゚)!
側室になった翌年に茶々は男の子を産みました。
棄て子は丈夫に育つといういわれから棄「すて」と名付けられたその子は2才で亡くなってしまいます。
もう諦めて、秀吉は甥の秀次に関白の座を譲ります。
するとまた茶々が懐妊し、またまた男の子を産みます!今度は拾い子も丈夫に育つということで拾「ひろ」と名付けられ、この子は成人します。
あまりに出来すぎたタイミングでの懐妊から秀吉の実子である可能性は極めて低いと言わざるえません。
この時秀吉56歳、長いこと世継ぎに恵まれなかった事や嫡男棄の夭折、そして老いによる思考力の低下など色んな要素があったと思いますが、秀吉は豊臣家破滅のレールを自ら敷いて行くのです。
※棄と拾の父親が誰であったか?今となっては解りませんが、茶々の乳母兄の大野修理説が現実的に考えて一番有力と言われています。
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