スーパー官房長官石田三成②

石田三成
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時は天正10年(1582年)6月2日本能寺の変である。

天下統一を目前に戦国時代の風雲児織田信長は本能寺の灰となった。

翌3日の夜から4日の未明にかけて君主織田信長の頓死の報を聞いた豊臣秀吉は落胆していた。

「何を悲しんでおられる、天下取りの好機ではないか」軍師官兵衛のパワーフレーズに秀吉は明智光秀を討つことを決心。

中国大返しの始まりである。

備中高松城(岡山県岡山市)から京都の山崎までの200キロを総勢2万人が10日かかけて移動したのち明智軍1万5千の軍勢と戦を交えて明智光秀を討ちとるまでの10日間。

交通手段は船、馬及び徒歩。通信手段も船、馬及び徒歩。

急遽決まった200キロを2万人でできるだけ早く移動するというこのミッションを10日間でコンプリートに導いた男こそ石田三成である。

人間生きていれば腹は減るし喉も乾く。ましてや昼夜天候を問わず歩きどおしだったらなおさらの事。

三成は2万人の食料と水を必要な時に必要な場所に的確に手配した。(馬の餌も含む)

瞬時に何がどれくらい必要か(‘_’)?シュピーンシュピーンと脳内で計算し使えるお金を照らし合わせながら的確に算出。

当時の成人男性が1日に食べる米の量は1人約3合と言われていたけれど、2合で計算しても1日1300俵でキロ換算だと7800kg(;’∀’)スーパーで良く見かける10kgの袋で780袋!
現代でも2万人分の米をこの日、あの場所にこれ位って急に言われても無理だと思う。

食料だけじゃなく武具や弾薬、薬草に至るまで、まるで現代人さながらExcelと会計ソフトを使いこなし、スマホ片手に卸売業者と瞬時に商談をまとめ、大型の輸送船とか輸送トラックをバンバン使っているんじゃないかと思ってしまうほどの事を戦国時代にやってのけたのである。

また秀吉はこの大一番を成功させるべく、2万の兵の士気をあげるために彼らの年収の何倍ものお金をふるまっているので、瞬時にいろいろ計算して成し遂げた三成の頭の中はどうなっているんだろうか?

天下を取った秀吉のスーパー官房長官三成の誕生である。

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