弘前城に密かに祀られた秀吉像と石田三成への恩義

歴史お散歩
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夢のような10連休も今日でおしまい(/_;)

さて、今年は弘前桜が見頃の連休前半に会津と山形へ旅行に行っていたので、弘前でのお花見は旅先から帰宅途中の30分程になってしまいました。

弘前ICを出たのが夜8時半。そっから自宅まで1時間以上あるので長居は出来ませんが、弘前の桜を見なければ春夏秋冬が始まらない(*‘ω‘ *)

もう4月29日・・・果たして桜はまだ咲いているのか?

いざ!!

死ぬまでに見たい景色100選に選ばれた花筏

ホ~(*’ω’*)お堀の桜はかなり散っていますが、花筏MAX(*´ー`*)

これ地面じゃなくて、お堀の水面に敷き詰められた花弁なんですよぉ( *´艸`)

場内はまだまだ見ごろ(*^^*)弘前の桜は樹木医がサポートしてるだけあって枝ぶりに品があるんですよ~やっぱ最高!来て良かった!

桜がハートに見える人気スポット(*^^*)今回は天守まで行けませんでしたが、ここ弘前城は石田三成の血脈が現代につながった所縁の地なんです。

弘前藩祖津軽為信は、南部氏の家督争いの混乱に乗じて下克上の末に津軽地方を手中にした為、津軽家と南部家の間には深い確執がありました。

その為、為信は南部氏に何度も上洛を邪魔されて困ってしまいます。

そこで助け舟を出してくれたのが、石田三成です。

おかげで為信は無事上洛を果たし、本領を安堵されました。

関ヶ原で為信は周囲の状況から東軍につきますが、決して恩を忘れたわけではありません。

真田親子兄弟が東軍と西軍に別れて家を守った事は有名ですが、津軽家もお家存続のため為信と長男信健が東軍と西軍に別れ戦います。

せっかく親子東軍西軍に別れてお家を守ったのに、西軍についていた信健は三成の次男と三女を弘前に連れ帰ってきます!

ばれたらお家取潰しは逃れられない状況ですが、為信は温かく三成の遺児2人を迎え入れました。

次男は杉山源吾と名を変え弘前藩の重臣とし、三女辰姫は信健の弟で二代藩主の信枚の妻となり三代藩信義を産みました。

家康の養女満天姫が信枚の正室として送られてきましたが、信枚は辰姫を愛してやまなかった為、側室に降格してしまった辰姫の子が嫡男になったと言われています。

信義は50人も子を持ったので弘前で三成の血が猛スピードで拡散されたと言われています。

(私も津軽地方の石田姓を名乗っていますw集落に石田姓がかたまってて、中には三成の子孫だと伝わってる家もあるみたいだけど???)

この辰姫の産んだ信義は徳川の時代に「自分は石田三成の孫」と公言し、反徳川の態度をあらわにしていたのでバカ殿と言われていたんですが、それは三成の血筋を誇っていたからとも言われています。

八代で三成血統の殿様は途切れてしまうんですが、驚いた事にあの時弘前に持たらされたのは三成の血筋だけではなかったんです。

藩祖為信により決して開けてはならぬと言われていた稲荷祠、明治になって開けてみるとそこに祀られていたのは稲荷様ではなく豊臣秀吉の像でした。

為信は三成の遺児を匿っただけではなく、城内に豊臣秀吉を神として祀っていたのです。

戦国時代、信長没後も秀吉没後も誰につくのか?どっちに付くか?の繰り返しですが、罪に問われる事覚悟で受けた恩に義を通した津軽為信。

教科書や東軍目線の歴史書には無い人間模様に触れるたびに、私は生きた歴史をもっと知りたいと思うのです。

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