豊臣の天下は何故続かなかったのか③

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関白を秀次に譲った矢先、茶々が懐妊しました。多くの女性と関係をもっても子に恵まれなかった秀吉が、このタイミングで(;´∀`)茶々だけ都合良く子を宿したとなると、茶々が何処かで仕込んで来た可能性が高いと言わざる得ない状況です”(-“”-)”

秀吉は茶々に「自分の乳で育てよ」(高貴な女性は自らの母乳を与えず乳母に任せます)とか「ハラワタが煮えくりかえってる」等心中穏やかでない書状を送ったり、寧々には「茶々の懐妊承知した。私は子供は欲しいとは思ってなかった、太閤の子は棄てだけだ」みたいな手紙を送ったりと、晩年は部下の石田三成や五大老の家康に「拾いを頼む」と懇願してるんですが、秀吉も秀頼の出生について薄々気づいていたのかもしれませんね。

豊臣の威光と威厳を保つため、それでも茶々が可愛かったから許したのでしょうか?こうして疑惑の子秀頼は文禄2年(1593年)8月3日太閤秀吉の子として誕生します。

城外では棄て誕生の時点で城の壁に太閤の子供ではないとの落書きがされて門番等関係者全員が粛清されたり、茶々は陰で淀君と遊女を指す呼名で揶揄されたりと誰も公に口にしないだけで茶々の出産は庶民から見ても奇異な出来事だった様です。

関白を秀次に譲ってからの出来すぎた茶々の懐妊を皮切りに、豊臣家の崩壊は急ピッチで進んでいきます。

茶々の懐妊に最初は冷静だった秀吉でしたが産まれてみると打って変わってわかりやすく秀頼を溺愛します。そして後継者として位置付けていた甥の3兄弟が目障りになっていきました。

秀頼誕生の翌年の1592年3兄弟の次男坊の秀勝が23歳という若さで唐入りのさなか朝鮮の巨済島で病没。

そして文禄4年(1595年)秀吉ボケも相まってついに暴走

秀頼が生まれたばかりの頃の秀吉は表面上は秀次と良好な関係を継続していましたが、秀次を蹴落とそうという目論見が見え隠れしており、秀次は心身を病んでいきました。

要所の城を壊して暗に秀次を監視する体制を作ったり、唐入り前の大名に秀次ではなく秀頼への忠誠を誓わせたり、チクリチクリと秀次を追い詰めていきましたが文禄4年から秀吉はこざかしいことはやめて一気に秀次抹殺を強行します。出生に不安のある秀頼に跡を継がせる為には秀吉の中で血縁者はもはや秀頼の存在を脅かす存在に成り下がってしまったのです。

一刻も早く秀次を一族もろとも消し去りたい。可愛い茶々の秀頼に跡を継がせたい!

これが血族を重んじ御三家システムで血筋を保った徳川泰平の300年との決定的な違いで、豊臣亡滅の原因だったと思います。

3兄弟の三男で秀吉の出来た弟秀長の跡を継いでいた秀保が5月に不審な死をとげます。(病死とも崖から落ちたとも落とされたとも)

翌月の6月には関白になっていた秀次に秀吉への謀反の疑いが突然かけられました。

秀次の妻妾子は監禁され、秀次はそんなことは無いと7枚にわたる誓紙を書きます。

秀吉に直接謁見を求めるも叶わず、頭を丸めて高野山へ行けと蟄居を言い渡されます。

そして7月15日秀次は自害しました。28歳でした。

Wikipediaより引用

これで甥っ子3兄弟は3年のうちに皆死んでしまったんですが、秀吉の狂気は止まりません。

本当に狂ってるとしか言いようがありませんが、秀次の一族を粛清すると言い出します。

8月2日、秀次の妻、妾、若君、姫、女官に至るまで39名が処刑されました。処刑される道中幼い子供は何も知らずはしゃいでいたそうで、余計見る者の涙を誘ったそうです。

秀吉の妻寧々や徳川家康、前田利家など多くの者が助命懇願しても聞き入れられず、幼い子供から順に秀次の首の前で処刑されていったそうです。

あまりに無残な光景に見に来たものは奉行に罵声を飛ばし、見に来た事を後悔したそうです。中でも15歳の駒姫に至っては側室として上京の旅を終えたばかりで休んでいた所だったといいます。まだ秀次の顔さえも見た事も無かので、秀吉の狂気が伺えます。

粛清された一族を埋めた塚は秀吉への軽蔑を込めて【畜生塚】と呼ばれました。

一族を根絶やしにしてもまだ足りず(難を逃れた姫も数名いて、一人は真田幸村の側室になっています。)秀吉は秀次の痕跡を破壊していきます。秀次が拠点にしていた聚楽第などは打ち壊され、堀は埋め立てられてほとんど跡形もありません。

こうして秀吉は秀頼を除く自らの血縁者を根絶やしにし、秀頼を一人ぼっちにしてしまうのです。

以下簡単な年表です

1589年5月 秀吉嫡男棄て 誕生

1591年9月 秀吉嫡男棄て 死没

1591年12月 甥、秀次に関白を譲る

1592年10月 甥、秀勝唐入りのさなか病没

1593年8月 秀吉次男拾い 誕生

1595年5月 甥、秀保不審死

1595年6月 関白秀次に謀反の疑いをかける

1595年7月 関白秀次自刃

1595年8月 秀次の妻妾子等39名が処刑される

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