会津松平家初代当主保科正之は、徳川家康のお孫さんです。
誰も知らないけど正之はワシの孫なの。秀忠の奴、嫁が怖いなんてホントなっさけないのぉ。
そう彼の父は2代将軍徳川秀忠です。
将軍の子なのに誰も知らないとは?(´・ω・`)一体・・・?
秀忠の奥様は豊臣秀吉最愛の側室茶々の妹で浅井三姉妹の末っ子お江です。
彼女は3回目の結婚で先の夫との間に女児が居たにもかかわらず、大変なヤキモチ焼きで一国の大名どころか時の将軍である夫が側室を持つことを許さなかったと言われています。
ドラマや小説を盛り上げるために盛られてる部分はあるかもしれませんが、正之の存在は秀忠の重臣数名を除いて厳重に伏せられて徳川や松平を名乗らず保科正光の子として育ちました。
母静が秀忠の側室と認められたのは秀忠、お江、母の静本人が亡くなった後だった事からもやっぱり相当なヤキモチ焼きだったのかもしれないですね( ;∀;)茶々の妹ですからね、、、気は強かったと思われます。ハイ
そんだけ強かったら私と秀頼の助命に尽力してくれても良かったんじゃない?
本当にこの姉妹は何度も落城を経験しているのに、姉妹そろって武家の女の心得はどうしたの?と思ってしまいます。お江は多産だったから良かったかもしれないけど。ねぇ(;’∀’)
で、保科正之ですが兄の家光は同母弟の忠長の事は嫌いでしたが、正之は勤直で有能であった為大変可愛がったそうです。正之の有能ぶりは次兄忠長も買う程で、のちに日本屈指の名君とまで言われています。
家光はずっと母お江の他に父の子が居る事を知りませんでしたΣ(・ω・ノ)ノ!家光はお忍びで江戸の町を散策するのが好きで良く町人に扮して町歩きしたそうですが、ある日目黒を散策してる途中休憩した寺の和尚から保科正之は家光様の弟君だと聞き初めて弟の存在を知ったそうです。
すさましい緘口令(゚д゚)!
ですが途切れた兄弟の糸は繋がり正之は家光に尽くし1643年会津藩23万石の大名に引き立てられます。
家光は死の間際、枕元に正之を呼び寄せ徳川家を支えていってほしいと後を託しました。
これに感銘を受けた正之は作ってしまうのです!幕末まで忠実に守られ続け、最後はこの家訓により賊軍に祭り上げられてしまったと言われているあの「会津家訓十五箇条」を(/_;)
会津は多くの名将が領主となりましたが、幕末まで続いたならぬことはならぬものですの会津精神は保科正之の実直なまでの徳川宗家絶対主義が産んだものと言えるかもしれません。
それにしても藩祖の意思が200年以上も忠実に守られるってすごいです(^^)
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