保科正之の男系は7代藩主松平容衆で実は途絶えているんですが(´・ω・`)
立て続けに藩主が亡くなり、残った7代藩主容衆は当時3才。オサナイデスネ・・・
会津藩の家老田中は乳幼児の死亡率が高い中、幼い藩主1人の状態に不安を抱きマス(; ・`д・´)
そんな時田中は、高須藩藩主になる松平義和が庶子「容敬」をどうしたら良いか困っているという情報を聞きつけ驚くべき行動に出ました。
容敬を容衆の実の異母弟として秘密裏に引き取り養育したのです。
そして田中の心配は的中し、容衆は子を残すことなく20歳でこの世を去ります。
こうして容敬は家老田中の裏工作により保科正之の直系男系子孫として藩主の座についてしまいました( ;∀;)
※会津でこんな事があるという事は、他藩でも同じ事例があるかもしれないですねΣ(・□・;)
豊臣秀頼の出生もしかりですが、血統なんてあって無い様な物なのかも?
せっかく危険を犯して容敬を藩主に据えたものの子に恵まれず、容敬は照姫を養女とし、自分の本当の実家高須藩から容保を婿養子としようとしました。が、側室が敏姫を懐妊します。
結局この時産まれた実の娘敏姫と容保が結婚します。
この辺りはよくドラマで悲恋風に描かれますよね、敏姫は14歳で疱瘡にかかり、失われた美貌に失望し鬱状態に陥って19歳で亡くなるんですが、容保と最初の婚約者だった照姫が思い合ってるのを思い悩みながら亡くなるというストーリーに大体なってます。
なんで「容保」を強調するかって?
だって松平容保と言ったら彼を見た女性は眩暈を起こすとまで言われた幕末一のイケメンだからです(*’ω’*)ゆっさんも幕末の中では一番好きです!
彼は、孝明天皇の信頼も厚く勤皇派だったのに最後には賊軍の汚名を着せられてしまいます。
どうしてそんな事になってしまったんでしょうか?
直系が途絶えようとも脈々と受け継がれた家訓。
会津藩家訓十五箇条
容保公もこの家訓を指針に会津藩を背負っていた事でしょう。この家訓に始まり、この家訓で終わる会津松平家であります。
この家訓により容保は幕末の激動の渦に引き込まれてしまうのでした。
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