千人の会津藩士を1年交代で京都に置き、テロリストを取り締まる警察をやってくれとの要請に容保は断固NO(-“-)を出しましたが、春嶽は【あれ】を持ち出します。
会津藩家訓十五箇条
大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。
【将軍家に一心に尽くせ、ほかの藩がどうとか関係ないから、もしそんなの関係ね~とかいう藩主が居たら、そいつは俺の子孫じゃないから言う事聞くな。】
つまり、将軍家を全力で守るのが会津藩だろ?違うの?
と、春嶽に痛い所をつかれたわけです。春嶽は名君と言われてますがこれは容保に同情。
これを出されたらやるしかないですもん(-“-)
この時京都でテロを起こし治安を乱していたのは長州をはじめとする攘夷志士ですから、取り締まりに当たっていた会津藩に恨みを抱いて、後の会津戦争に繋がっていったんですね(+_+)
攘夷志士は尊王を掲げながらも、孝明天皇の思想と同調していたわけではありません、そして会津は孝明天皇の信頼も厚く朝廷に反旗をひるがえした賊軍なんかではありませんでした。
遂に長州は孝明天皇に京都から追い出され、会津への恨みを募らせていきます。
尊王攘夷をかかげつつ、もっと扱いやすい王を欲していたかはわかりませんが、この頃タイミングよくバタバタと重要人物が亡くなっていきます。
それは薩長同盟が凍結された1866年(慶応二年)の事です。
1863年将軍家茂は上洛して義兄孝明天皇に攘夷を誓っていました。
その天皇と将軍が薩長同盟が凍結された年に亡くなります・・・
8月に将軍徳川家茂が20歳で死去(表向きは脚気)
12月孝明天皇宝算37(満35)崩御(表向きは天然痘)
ツートップのあまりにも突然の若すぎる死。
二人ともに毒殺説が出ていますが、真実は闇の中ですね(´・ω・`)
こうして薩長は錦の御旗を手に幕府軍の前に現れます!
錦の御旗=天皇の軍隊=朝敵討伐の証です。
この時点では偽物だったとも言われていますが、本物だったとしても明治天皇はこの頃15歳です。幕府軍は錦の御旗を前に何もできず、勝利した薩長は幼い天皇から本物の錦の御旗を賜り正式に天皇陛下の軍隊、官軍になりました。
江戸城が無血開城され15代将軍慶喜が水戸で謹慎すると討伐の矛先は会津に向かうのでした。
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