嘉永6年(1853年)6月3日浦賀沖への黒船の来航により世に言う幕末の幕が開きます。
時の天皇は孝明天皇です。
孝明天皇は断固攘夷の天皇で、動乱の中不可解な崩御を迎えます。
開国を拒否する天皇の崩御によって現代知られる薩長史観の明治維新が急激に進みましたが天皇であるが故その真相は掘り下げて研究されることは今後も難しいかもしれません。
時の将軍は徳川家慶で、彼は病床で死の淵にありました。幕臣が黒船の対応に追われる中、同月6月22日に死去します・・・
この頃の幕府は既に欧米との力の差を感じており開国路線の天皇との考えと隔たりがありました。幕府の黒船への対応が軟弱に見えた事や一揆の多発による信頼の損失により土佐や薩摩、長州などが尊王攘夷論を唱え始めます。
しかしながら、孝明天皇は討幕を望んでいたわけではなく、あくまでも幕府との融和の道を探っていました。
13代将軍に就いたのは、脳性麻痺があったとされる徳川家定です。武家の女は平和な250年の内に派手になっていて(; ・`д・´)母や乳母、女中の「白粉」が原因で丈夫な子が産まれなくなっていたのです。
家定に丈夫な子を望み、公家ではなく薩摩から篤姫を正室に迎えましたが、子はなせず将軍の後継者問題が勃発し、家茂か慶喜かで幕府はおおいに揺れます。
結局14代将軍に家茂が就任し、公武合体の一環として1862年に孝明天皇の妹の和宮と結婚します。
その頃、尊王攘夷を唱えていた者も欧米との軍事力の差を認識していき「国内の体制を改革し、開国による外国との交易により軍事力の強化を図った方がいい!」という大攘夷論が芽生え、尊王攘夷の中心だった長州も開国へ転向していきます。
・・・ややこし(´・ω・`)なんかホントよくわかんない(汗)
とまあ、黒船来航によって幕府の権威失墜により尊王攘夷の中でも過激な思想を持った者が京都に集結し、暴れまわったので京都の治安は悪化していきました。
京都の治安向上のため京都守護職を置く事になりまして【配下の、幕臣で結成された京都見廻組(正社員)と浪人で結成された新選組(臨時職員)が有名ですね】徳川慶喜と松平春嶽にむりやり引きずり出されたのが会津藩主松平容保でした。
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