幕末と会津松平家⑥会津から斗南へ

江戸時代色々
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1868年1月に大政奉還をし、政権を朝廷に返したものの、朝廷側だけで政治を行うのは動乱の最中困難だったと思われますが旧幕府も政治にかかわりたいという考えに討幕派は許しません。

初めは「黒船に腰抜かして開国とか幕府腰抜けじゃね?天皇陛下を担ぎ出してあいつら引きずりおろそうぜ(‘◇’)ゞ」と尊王攘夷運動をしていたのに、西洋嫌いで扱いずらかった孝明天皇と天皇の攘夷に同調した将軍家茂の謎の死により薩長は幼い天皇を理想の王に仕立て「天皇中心の政治は西洋風、王政復古したんだから古い徳川はもういいよ(‘ω’)ノ」と旧幕府と新政府との間に溝ができていきました。

慶喜は頭が良いので朝敵になる事を避けるためひとまず大阪に下がりますが、最近の大河でお馴染みの【明治維新の英雄】と言われるテロリストが、江戸で暴れて幕府をあおります(-“-)ワタシあの人個人的に嫌い。

錦の御旗を掲げられた慶喜は多くの味方を残し開陽丸で江戸に逃げてしまったのでさあ大変!慶喜はこういう事を結構するので評価が良くなかったりしますね( ̄▽ ̄;)

その時逃亡に同行させられたのが将軍家を全力でお守りする家訓で京都守護職に担ぎ出された会津藩主松平容保です

Wikipediaより引用 松平容保公

容保はどうにか戦争を避けようと謹慎し新政府に恭順の意を示しますが「しんじらんねーな」と新政府軍は米沢や仙台に追討を命じます(-“-)ヒドイ

この理不尽な命令に米沢や仙台は「恭順してるのに討つとか、ろくでなしだな」と結束し戦争は始まってしまいました。

しかし戦線は激しく、どんどん味方についてくれた藩が降参していきます。

会津では白虎隊などの少年による予備部隊や女性による娘子隊までもが戦場で武器をとり、新政府軍と戦いました。

白虎隊が落城したと勘違いし、自刃した話はあまりに有名ですね。

この時女子供年寄りもおもちゃのように殺し、暴行、略奪と暴挙の限りを尽くしはっきり言っての御旗を持った官軍のする戦いではありません。明らかに無駄な殺生です。

8月23日から籠城戦になり昼夜をとわない砲弾に耐えながらも9月22日遂に会津は降参しました。

弾痕の残る鶴ヶ城の石垣

戊辰戦争はこの後函館まで続きます。

会津松平家は会津藩を没収され、容保の嫡男「松平容大」に家名の存続が許され青森県の陸奥斗へ移封となりました。

斗南藩は3万石とは名ばかりの不毛の地で、会津藩士たちは飢餓と気候に苦しんだそうです。

斗南藩は実は改名で、初め三戸藩と称していました。

表向きは「北斗七星より南は全て帝のもの」という意の解釈がされますが「南(薩長)とたたかう」という意味が込められていると伝えられています。

新天皇即位による10連休で会津へ行ってきて、会津と容保公について記事にしたいと思っていましたが、会津を語る上で幕末は外せないので長くなってしまいました。

会津松平家シリーズお付き合いくださりありがとうございました(*^^*)

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