そもそもどういった経緯で直江状は世に放たれたのか?(?_?)?
これは歴史全般に言える事ですが、何か一つ気になる事があって、それを理解するには関わる人全部、起った事全部調べてやっとあ~そうだったんだ(о´∀`о)スッキリスッキリ
となるのでスッキリスッキリするには至らないとは思いますがお付き合いくださいネ(*^_^*)
時の天下人、豊臣秀吉は老齢になると蛮行を繰り返すようになりました。
我が子可愛さの余り跡取りを脅かす芽を自分で摘んでおいて、亡くなる前に我にかえります。
秀頼はまだ幼児、力のある奴が天下を狙ってくる!家臣だけじゃ押さえ切れるものじゃない((( ;゚Д゚)))
え、豊臣家ヤバくね⁉(○_○)!?
と( ´,_ゝ`)、、、そうです。秀吉は老いて思考がどうかしてしまったのか?将来秀頼を支えていく貴重な血族(秀吉は男性不妊だったので秀頼は実子でない可能性が大きい。よって秀吉の血族は極めて少ない)甥秀次とその一族幼児に至るまで39人ほどを
粛清してしまったのです。
こうしてなんとか豊臣政権を存続させようと組織されたのが五大老と五奉行です。
五大老は有力な大名
五奉行は有能な家臣
有力な大名を組み込んで、政治を自分の有能な家臣との合意制にする事で大名の謀反を防ぐという構図です。
その五大老の一人が直江兼続の主上杉景勝です。
景勝は真面目な男で、秀吉の信頼も厚かったそうです。
景勝は最初、越後(新潟)に居ましたが秀吉の命により会津(福島)に移りました。
秀吉は家康が天下を狙ってくることを生前から恐れていたので、家康の暴走を食い止める狙いがあったものと思われます。
そんな景勝の出来る家臣兼続、とっても有能な彼は秀吉の目にも留まり、秀吉直々の家臣としてヘッドハンティングされかけてますw

米沢(山形)に30万石やるから俺の家来になれよ(* ̄∇ ̄)
しかし兼続は断ります。

私がお仕えするのは景勝様だけです!(-“”-)!
と(; ・`д・´)
そして時は流れ秀吉は不安を抱えたまま亡くなります。
自分で撒いた種なのでなんとも同情できませんね。
秀吉が亡くなると家康はあからさまに野心をむき出しに好き放題やりはじめました。
1598年に秀吉が亡くなってから関ヶ原が起こるまで2年ですから、あっという間です。
家康は勝手に大名同士の結婚を斡旋したり自分主導で政治を行うようになり、大名に難癖つけては命令(書状)出したりと威張り散らしていました。
そしてその家康の難癖を記した書状は景勝にも届きます。
それに対する返事が直江状です。
直江状は挑発へ対する返事だった訳です。
続く(^^)
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