比べてみよう天下の三英傑④お城編

戦国色々
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戦国時代の領主の居城は先祖代々受け継がれ、奪われたら奪いかえすといったように、一族で大切に守られていました。

そんな、一国の主として重要な城ですが
三英傑たちはどうだったのでしょうか?

織田信長【居城の引越しをする】

                【天下の象徴である城の礎を作る】
豊臣秀吉【天下人にふさわしい豪華絢爛な城を建てまくった】
徳川家康【一国一城令を発し他の大名の城を制限した】
信長以前の時代は戦に勝って、どんなに領地を拡大しても、居城は変えない事が多かったそうです。
 
一方の信長はその時々の状況に応じて重要と考えられる場所に点々と居城を移しました。
これは当時大変珍しく、革新的な事です。
なぜ他の大名が居城を移さなかったのか?
なぜ信長にできたのか?

戦になると当時は戦力として農民の力が必要でしたし、居城の移動となるとものすごくお金がかかります。だけど信長は【兵農分離】で兵の心配もなく、【楽市楽座】で財政を豊かにすることができたので
居城を移すことができ、戦況を有利に運び天下に近づくことができたものと思われます。

【兵農分離って何?三英傑シリーズ②兵士編↓↓↓】

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現在日本の城といえば石垣の上に天守閣があるのが一般的なイメージですが
その石垣の上に天守閣を築いた最初の人物が信長と言われています。
天下布武の象徴として築城された安土城、地下1階地上6階建てで、信長は天守閣で生活したといわれています。防御力を持たない構造で、天皇を迎える部屋(推定)があったり、軍事としてではなく政治の拠点であったと推測されています。3年で焼け落ちてしまいますが信長にふさわしく豪華絢爛なものであったといわれています。
 
信長亡き後天下を統一した秀吉は豪華絢爛な城をバンバン建てました。
天下取りの足掛けとなった「長浜城」、天下統一の象徴として建てた「大阪城」、居住と政務のために建てた「聚楽第」隠居のための「伏見城」そのほかにも一夜で建てたといわれている「墨俣城」「石垣山城」そして中国地方の平定のために黒田官兵衛が差し出した「姫路城」朝鮮出兵のための拠点となった「名護屋城」と信長に倣い時々にあわせ拠点をうつし天下を統一しました。

天下の象徴と言われる大阪城は諸国の大名が訪れた際秀吉自ら案内したといわれています(*^_^*)よほど自慢したかったんでしょうね~

そんな秀吉自慢の大阪城は最愛の側室茶々と最愛の息子(遺伝子上は不明)秀頼と一緒に徳川家康によって落城・゜・(つД`)・゜・

大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした家康は電光石火の勢いですぐさま【一国一城令】を出しました。

当時は「城=住む」ではなく「城=要塞」の意味合いが強かったし、戦の為に要所に設けていたので、あるだけで脅威。
 
真田丸を見て欲しい、あれは城っていうか本当に軍事施設(真田丸のシーンは幸村がかっこよすぎて震えましたww)

発令から数日のうちに 、400もの城郭が破壊され、安土桃山時代3000程あった城郭は最終的に170程になったそうです(゜ロ゜;ノ)アレマ
更に城の修繕でさえ許可が必用になり、残った城の増改築さえ気軽に出来なくなってしまったんだから、家康の抜け目の無さは本当に凄い!

家康は三英傑の中では、一番スローなイメージだけど、地盤堅めが猛スピードで行われてるのが良くわかります。

小田原城開城ののち豊臣秀吉の命で、江戸に移った家康。

 
そこで江戸幕府を開き江戸城を居城としましたが、晩年は隠居し幼少から青年期までを過ごした駿府で過ごしています。

ここで面白いのが、駿府城の下からなんとΣ(‘◇’*)2018年、豊臣秀吉が築いた城が発掘されたそうです!
 
豊臣秀吉の築いた大阪城の上に徳川秀忠が新たな大阪城を築きましたが、その前に家康が豊臣の城の上に自らの城を築いて晩年を過ごしていたとは戦国ロマンですね~(*’-‘*)
 
駿府城は江戸城より規模が大きかったとも、家康が世襲を確固たるものにするため、将軍の象徴である江戸城より小さかったとも言われていますが、天守台の規模は日本最大と言われています。

 
3D江戸城探訪 (DIA Collection)
ダイアプレス
2018-09-29
 

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